万葉線の沿革           2011/03/21 更新

 万葉線は高岡駅前−六渡寺間の軌道線と六渡寺−越ノ潟間の鉄道線に分けられるが歴史的にも2つに分けることが
できる。鉄道線部分は、富山から北へ向かい四方(よかた)へ出て、富山湾沿いに西へ新湊までの軌道を敷設
沿線旅
客および海産物
米穀等を輸送する目的で1922(大正11)年12月26日に射水電気軌道鰍フ名称で軌道法に基
づく免許を取得した。1923(大正12)年2月に越中電気軌道鰍ニして創立
1924(大正13)年10月12日
に富山北口−四方間6.1kmが開通した。
 1926(大正15)年7月21日には富山北口−聯隊橋間(聯隊橋は現富山大橋)と四方−打出浜間を延長聯隊橋
では富山市電(市営)に接続して郊外線的機能を伸ばし、打出浜には海水浴場を開いた
しかし業績は芳しくなく地方
鉄道補助法の適用を受けるべく1926年に軌道を鉄道に変更し
1927(昭和2)年2月をもって社名も越中鉄道
鰍ニ改めた。1929(昭和4)年より打出浜より西の延長工事が少しずつ開通していき
1933(昭和8)年12月
25日に聯隊橋(新富山)−新伏木口(現:六渡寺)まで19.9kmが全通した。その後
富山県西海岸の基幹交通として
活躍してきた。
 一方軌道区間は戦時中、伏木・新湊方面への工場従業員輸送のために、富山地方鉄道の手によって着工されたが開
通したのは戦後の1948(昭和23)年である。
この時開通したのは地鉄高岡−伏木港間7.3kmで高伏線と呼ばれ
ていた。車輌は日立電鉄などから四輪単車を譲り受け使用した。
 さらに1951(昭和26)年に湶町(現:広小路)−米島口間が複線化されると同時に、米島口−新湊間が開通し射
水線と接続し、富山−高岡間が繋がった。その後、1959(昭和34)年4月に加越能鉄道が地鉄高岡−新湊間を譲
り受けた。同時に地鉄高岡を新高岡と改称し電停の位置も現在の場所に移動した。
 1966(昭和41)年、富山新港の築港のため、富山地方鉄道射水線の越ノ潟−堀岡間が切断されることになり、
この間はフェリーで連絡する事になった。
高岡側に残る射水線の越ノ潟−新湊間4.9kmは加越能鉄道に譲渡され、
新湊線となった。
 昭和40年代後半になるとモータリゼーションの影響が大きくなり各地の地方鉄道・軌道が廃止されていった。
 高岡軌道線のうち、伏木線と呼んでいた米島口−伏木港間 2.9kmも1971(昭和46)年8月31日限りで廃止
された。さらに射水線は港口切断の影響もあって切断直後の1967(昭和42)年には一日の平均輸送人員が960
0人であったが、1970(昭和45)年には7500人となり営業係数も210となって、富山地方鉄道は射水線の
廃止を決定したが、猛烈な反対運動が起こり、国、県、富山、新湊市の欠損補助を受け運行されたが、輸送人員が増
えることもなく、遂に1980(昭和55)年3月31日に廃止となった。
 加越能鉄道に残った区間も状況は同じであったが、国、県、高岡、新湊市の欠損補助を受け、加越能鉄道の経営努
力もあって存続したが、2002(平成14)年3月31日をもって加越能鉄道は廃止となり、4月1日より第3セク
ターの万葉線株式会社に経営が引き継がれた。

加越能鉄道万葉線


伏木港線 矢田電停

行き違い可能だった新高岡駅

3両編成の射水線電車

1998年10月 高岡駅前

1998年12月 中新湊

1999年4月 六渡寺駅

1999年8月 庄川鉄橋

2001年8月 末広町

2002年3月 米島口